社長の日記

2017年8月28日

八代から眺める不知火海と冨岡の歴史(M.N)

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 夕景の不知火海を飽かず眺めていたことがある。九州本土と天草諸島に挟まれた、この内海は日が落ちるころがひときわ美しい。赤々と染まる鏡面のような海、青黒くたたずむ大小の島影。やがてそれもこれも夜の闇に溶け込んでいく。

 

  天草は領主小西行長の死後、肥前唐津藩の飛び地となり、島原の乱後は天領となった。江戸時代を通じて、肥後熊本藩から切り離されてきた天草が、明治になって突然、熊本県すなわち肥後に戻された。

 

 天草は今も昔も、長崎とつながりが深い。その交流を支えてきたのが長崎・茂木と天草・富岡を結ぶ航路だ。江戸後期の学者、頼山陽が「水天髣髴(ほうふつ)、青一髪」の句で有名な漢詩「泊天草の洋」の想を得たのは、茂木から冨岡に向かう船上のことだ。

 

 1907(明治40)年、与謝野鉄幹、北原白秋ら5人の詩人の九州紀行「5足の靴」で、長崎、天草の異国情緒が脚光を浴びた。5人も船で茂木から富岡に渡っている。

 

 母は冨岡で、明治42年の生まれで冨岡の歴史を教えてくれた。私の学んだ小学校・中学校は八代でした。天草、八代の思い出を投稿しました。




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